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 座談会記録
     第1回: 車の電子化の歴史
     第2回: 車電子制御放談
     第3回: 趣味の言語学談義


第1回  車の電子化の歴史

2003年12月14日
Internet World Plazaにて

聞き手 本日はお忙しいところをありがとうございます。今日は昔から現在を含めた話題を雑談形式で進めたいと思います。内容は何でもありです。
M氏 今日はそんなに忙しいわけではないし、喜んで何でも話しますよ。何でもありとは?
聞き手 あらゆることが話題になります。
ぶしつけですが、お仕事で最初にこちらに来られたのはいつ頃でしょうか。
M氏 昭和40年年代前半です。1960年代後半になります。今から遥か30年以上前のことです。東京を経由してこの地に来たのですが、東京に近い関東だしもっと都会だと思っていました。実は結構田舎でしたね。今も田舎ですけどね。
聞き手 最初はどこにお住まいで?
M氏 最初は住所不定のようなものでしたよ。この会社は新採者をH市に集めて集合教育をするのです。その期間は指定の寮に寝泊りにまります。
聞き手 その後配属が決まるのですね。
M氏 そうです。K市の工場に決まりました。でもH市にある寮に入りましたね。昔ですから部屋には裸電球1つで後は何もない。畳は縁なしで変わっていましたね。今とは比較にならない粗末な環境でした。裏が海でして直接歩いて海水浴に行けます。4棟もある大きな寮でした。実は勤務地のK市は離れていて20km以上ありました。最初はバスで通っていたのです。同期は数多くいて最初の頃は集まって騒いでいましたね。
聞き手 どうしてそんなに遠かったのでしょう。
M氏 私の勤務地の工場は出来たてで、まだ寮は建設中だった。それで、同じ会社の別の工場の寮に入ったのですよ。寮が翌年に完成しても、私は結局結婚するまで新寮に移らないままそこに居ました。すぐに一人部屋になれたし、後半になると更に結構居心地がよかったのですよ。というのは、他の工場の寮だから、年を経るにつれて知った顔が居なくなってプライベートな時間が取れました。風呂場も銭湯並に広かったのですよ。更に早くから電子レンジが食堂にあって遅く帰ってきても全く問題はなかったのです。あの頃、電子レンジは珍しいものでした。
聞き手 住みよかったのですね。
M氏 そうですね。寮はともかく、H 市は工場の町のせいで飲み屋は多かったです。よく飲みに行きました。この町は地域内に必要なことは全て揃っていたのですね。
作業衣で歩いても違和感のない町でしたね。当時は活気に満ち溢れていました。私を含めて溌剌としていました。
通勤だけは時間がかかって大変でしたが、そのうちにマイカー通勤にしました。当時は車は少なく、信号も少なくて20数km離れていてもそんなに時間はかからなかった。でも次第に混むようになりましたね。当時は高度成長の中にあって変化が早かった。
聞き手 で、どのようなお仕事をされていたのでしょうか。
M氏 私の勤務工場は自動車の電機、燃料系製品を設計・製造していました。私は電気屋だったものですから、やはりその方面の担当になりました。
聞き手 当時の製品の特徴は何なんでしょうか。
M氏 そうですね。当時のエンジン関係の電気回りといえば、オルタネータ、レギュレータ、スタータ、ディストリビュータ、点火コイル、点火プラグなどですね。その工場ではその他、気化器、カークーラー、ブロワモータを作っていました。
その後、技術の進歩で大きく変化を蒙ったのは、ディストリビュータ、点火コイル、レギュレータ、それに気化器などです。現在では当時とは違う形になっています。
聞き手 その頃は電子化はまだでしたね。
M氏 そうです。当時はシリコントランジスタの出始めでした。オルタネータの整流に唯一シリコンダイオードが使われていました。
マイコンはその後になるのですが、シリコントランジスタは既に世に出ていて、エンジン回りの電子化の黎明期だったのですよ。
最初の電子化はトランジスタイグナイタとトランジスタレギュレータでした。
私は最初に電子式の燃料噴射装置の開発に携わりまして、アナログ式ですがその制御装置の開発に没頭しました。入出力部分も非常に重要ですが、当時苦労したのは関数発生回路部分ですね。アナログ式だから自由度がない。おまけに温度ドリフトを押さえなければならない。いろいろと工夫をしましたね。これは後にマイコン登場で一挙に解決することになります。
当時は試作回路を自分で組むことが多かったですね。ハンダ付けの名人になりました。修正もよくやったもので、溶けたハンダを真空で吸い取ります。真空ポンプ式などいろいろのタイプがあったけど、結局は単純なバネの付いた注射器式のものが一番良かった。
当時のトランジスタはCAN封止が主流でした。回路の確認中にトランジスタの頭を触ってやけどをしたことがあります。火星人のような形の2SC708という中電力トランジスタで、その頭に私の指紋が焼き付きましたよ。
聞き手 そういう経験は忘れないでしょうね。
M氏 そうですね。忘れません。いろいろな失敗や壁にぶち当たる事は時々ありました。回りには電子回路の専門家はそんなにいるわけではなので新米でもアドバイスは少ない。入社してから自分で勉強したり、体得したりで技術を身に付けるわけです。今と比べると幼稚なレベルですけどね。電子技術者は本当に少なかったのですよ。振り返ってみると私の前後の世代が電子化の牽引役になったのですね。
聞き手 計測器はどうだったのでしょう。
M氏 当時はオシロスコープは真空管式でした。熱でドリフトするしで測定器ではなくて波形観測器でした。岩通製があってそれはシンクロスコープという商品名なものだから『シンクロ』と呼んでいました。きちんとオシロスコープというべきでした。
もっとも大型で高性能な真空管式オシロスコープはあったのですが台数は少なかったので、下っ端の担当者はこの安いタイプの『シンクロ』を使いました。
その頃30数年前には既にTektronixはトランジスタ式のオシロスコープを出していて、それの携帯式のもが職場にあり、完成度が高く素晴らしいと思いましたね。これは測定器と言うべきものでした。
当時はデジタル式電圧計の走りだったように思います。積分式のものです。これは重宝しました。
記録式のオシロスコープはまだ電磁式で鏡に反射させて紙に感光させる方式でした。調整が厄介で、随分と記録紙を無駄にしました。
パルス幅測定のカウンタはありました。当時のものはなんと言うのでしょうか、数字の点灯管の中には0から9までの数字が並んでいてどれかが灯るものです。7セグメント式はその後だと思います。
聞き手 現在とは随分と違うと理解できました。
技術上の転換期は何時頃どのような形だったのでしょうか。
M氏 マイコンが出現してからです。1975年頃が8 bitマイコンの出始めでしょう。私が会社に入って10年弱の頃ですね。
聞き手 その頃のtopicsは?
M氏 なんと言ってもGMのMISARと呼ばれるシステムです。これは1977年型Oldsmobile Toronadoに搭載のマイコンによる点火時期制御です。これを知って各社は目の色を変えることになりました。このMISARは今でもSAE Technical Paperの780666で詳細を知ることが出来ます。これには今でも通用する技術とアイデアが入っています。
このとき以来、車のエンジンは電子化で大変革を遂げることになりました。
聞き手 マイコンはどうやって勉強されたのでしょうか。
M氏 そうですね。マイコンは電子部品とはいっても、単なる従来の電子部品とは別物です。システムを制御する心臓です。幸い会社には行き届いた教育システムがあり、いち早く手を挙げて基礎講座を受講することが出来ました。まだマイコンの情報が少ない時代ですから最初のこの受講は非常に勉強になりました。
聞き手 なるほど。
その頃はどこにお住まいで?
M氏 結婚してK市に移りました。このK市もやはり工場の町です。社宅のアパートは勤務工場の裏手にあって通勤は楽でしたが、このマイコンの適用の時期に当たっていて寝食を忘れて働きました。家内からは文句を言われるが仕方がありませんでした。今思えばその頃が一番充実していた時期かも知れません。
聞き手 K市の環境はどうですか。
M氏 冬は寒いですね。朝にはマイナス5度になることがあります。
昔も今も町が変わらない。20年前とそんなに違わない。もっと町としての完成度が上がらないといけない。むしろ中心部がさびれてしまいました。やはりここ10数年がひどいですね。
欧州の町は何十年も変わらないのは、完成して飽和しているからでそれでいいわけだが、ここは完成途上で足踏みしてしまっている。
聞き手 景気の回復期待ですね。
M氏 そうですね。でも日本の回り国の発展や、若者が少ないことや理科離れなど社会構造が昔とは違ってきているわけだからどういう将来なるのか心配です。
子供の世代が心配です。
聞き手 話を戻しましょう。マイコンが実際の応用に登場して20年以上経ちます。エンジン関係の制御にマイコンが与えた具体的なインパクトは何でしょう。
M氏 そうですね。これはインパクトが大きすぎて簡単にはいえませんね。
でもその後の現在までの変化を見るとよく分かります。昔のエンジンの様々な補機類は電子化されたにしても単独で働いていました。しかし、それが統合されて動作して個々が手足となったことですね。こうする事によってエンジンを狙い通りに操れるようになったのですね。
聞き手 なるほど手足ですか。脳はマイコンですが、目の部分はありますか。
M氏 いい質問です。あるのです。マイコンへエンジンの情報を与えないとシステムは動作しませんね。その目となる部分がsensorあるいはpick-upあるいはtransducerなどと呼ばれています。エンジンの回転速度情報、角度情報、排ガスの成分情報、負荷情報、吸気量情報、様々な温度情報などまだまだありますが、そのような情報が必要になります。
聞き手 どのようなsensorがあるのですか。
M氏 例えば電磁pick-upです。これで回転するエンジンの角度位置や回転速度が分かります。
それにO2センサが大切です。これは排ガス中の残存酸素濃度を検出します。これは三元触媒でHC、CO、NOxを同時に浄化するための空燃比(空気と燃料との重量比)を得るためには不可欠なものです。ガソリンをちょうど燃焼し切る空気量との過不足のない比があってその空燃比が要求されるのです。重量比で 14.7:1 ほどで、このO2センサはそのポイントの信号を発生させます。このO2センサはマイコン本格的登場の前から知られていて空燃比の制御に使われていました。
聞き手 その他の主要センサは何でしょう。
M氏 圧力センサとエアフローセンサですね。
このエアフローセンサには種々の方式がありますが、現在世の中に勝ち残ったのはホットワイヤ式です。これはその名の通り、熱線があります。例えばその熱線に息を吹きかけると熱が奪われて温度が下がります。しかし下がらないように電気的パワーを与えます。その追加パワーは吹きかける空気流量の平方根に比例します。この原理を使います。
このセンサはマイコンの登場なしでは使えない代物です。出力電圧は4乗根カーブで曲がっていますからね。しかしこのカーブはログカーブに近いすなわち等誤差率曲線に近いので都合が良かったのです。
マイコンはそれを直線化します。
聞き手 その開発に携わったのですか。
M氏 そうですね。関係したというべきかも知れません。
でもこのセンサ登場にからんで個人的には少し悔しい思いをしたのですよ。誰にも言っていないのですけどね。
聞き手 何ですかそれは。
M氏 当時、セラミックヒータに使われるPTCが出た頃でした。私は燃料噴射システムを担当していた頃で質量流量の検出に興味があり文献を漁っていました。というのはエンジンへの吸入空気量を正確に得ることは大きなテーマだったのです。当時行なわれていたインテークマニフォールドの圧力を検知するやり方は間接的で補正が必要だしエンジンは経時変化します。またBoschのVane式流量センサは本命とは思われませんでした。
文献中の熱線式は気流に熱を奪われる結果、温度低下による抵抗変化を測るもので今ひとつ納得ができない。でも漁った文献から後に重要になる空気流による熱の奪われ方の式は見つけていました。
そしてPTCを利用できないかと考えたのです。PTCはある温度で急激に抵抗を増す特性があります。従って電圧をかけるとその温度を自動的に維持します。風を当てれば奪われる熱量だけ電気パワーを供給します。そのパワーを検出すればいいのです。
聞き手 そのアイデアはどうされたのですか。
M氏 実は簡単な実験をして特許を書きました。その後、特許庁まで行ったのか、審査未請求で取り下げになったのかは分かりません。忘れておりました。いずれにしろ権利化はされなかった。
後にBoschからホットワイヤ式エアフローセンサの発表があって非常に残念に思いました。
聞き手 あなたのアイデアは実用になるようなものでしたか。
M氏 残念ながらPTCでは拙いでしょうね。でもその考えは発展させるべきでした。
面白いことに技術には同時性がありますね。既にBoschはその頃には既に開発を終えていたに違いありません。文献も出していたかも知れない。
聞き手 そうですか。残念でした。
長年やっているとそのようなことは起きるのでしょうね。
M氏 そうですね。ちょっと違うけれども残念に思っていることはいくつかありますね。
1つはノック制御に関してです。エンジンからカリカリというノック音が出たことを検知して点火時期を遅らせる制御です。ノックの起きる限界の点火時期で制御するのがエンジンの効率から好ましいのです。これを圧電センサこれはいわばマイクですね、これで検出します。しかしこの検出と処理は電気的波形で行なっていてなかなか大変なのですね。マッチングも大変です。
疑問は耳で聞いてノックと分かるのに回路では難しいがどうしてだろう。閃いたのはスペクトル強度と時間経過を耳は感じているはずだということです。私は自分で書く時間が取れないものだから部下に特許を書けと指示したがそのK君はうまく書けなかったのですね。私は何人もにアイデアを吹聴しました。大分経って忘れた頃にもっと高級な何とか変換を使ってデジタル式にノックを検出するという話が出てきました。これにはムカッときました。私は蚊帳の外だったからですよ。
でも同じ会社で特許権利を取っているしそれで良しとしました。
聞き手 まだありますか。
M氏 いくつもありますね。これも自社内です。会社としてはそれでいいのですけどね。
MT車でローにギヤを入れてアクセルを離して運転することがあります。渋滞中などです。制御がうまくないとここで車が前後にガクガクして不快感を与えます。これを押さえる必要がある。当時私は海外出張でこの対策を行なっていました。ガクガクの位相を合わせて燃料を濃くあるいは薄くして、ガクガクの発振を押さえようというものです。一応うまくはいったのですが完全ではなかった。すぐにこの改良特許が別グループから出たのですね。燃料ではなく点火時期を同期して変えるもので、応答性に優れたこちらのほうが当然いい結果が出ました。自分としては突っ込み方が今ひとつ足りなかったわけですね。
聞き手 これは最初のBosch の例と同じで今度は社内の技術開発の同時性でしょう。社内でいくつかのグループが切磋琢磨していたのでしょう。これはすべてあなたの突っ込み不足が原因です。全てあなたが悪いのですよ。
ではいやな話は切り上げて、マイコンに話を戻しましょう。
M氏 当時はマイコンという用語は使うなといわれました。代わりにマイクロコンを使えと。嘘か誠か知らないがマイコンとはマイカコンデンサを指す商標といわれたのです。でも結局はマイコンになりましたね。
最初の頃の開発は道具がまだなくて苦労しました。本当に面倒なステップを踏みましたね。今でこそパソコンがあれば出来ますが当時はそのパソコンはなかったわけです。
聞き手 ではどういうステップで開発をしたのでしょう。開発環境はどうだったのですか。
M氏 そうですね。プログラムをコーディング用紙に手書きコーディングしてASR33と呼ばれるTTY電動タイプライタで鑽孔テープを作ります。ソースコードの紙テープです。これをeditorで編集するのですが、ミニコンでやります。このミニコンを立ち上げるのにIPL(Initial Programme Loader)から始めるのですが、editorプログラムを読み込ませて、そしてソースコードを読み込ませてやっと実行です。読み込みは紙テープリーダーからになります。edit作業が終わるとassemblerを通すのですが、またそのassemblerプログラムの読み込みになります。そして機械語に変換します。またその結果を紙テープに吐き出し、リストをTTYから打ち出します。これがとろくて非常に時間がかかりました。そしてその紙テープ、これは当時はMotorolaのS-formatでしたがそれをROMライタに読み込ませてROM焼きをやります。当時の実験用ROMは焼き切り型でした。失敗したら捨てるしかありませんでした。
この一連の作業は非常に時間のかかるものでした。
聞き手 大変でしたね。でもその後は改善されたのでしょう。
M氏 パソコンが一般的になるまでは待たねばなりませんでした。ミニコンの後はHP社のデスクトップコンピュータを使いました。ミニコンから使い勝手は随分良くなりました。それでも随分長い間は紙テープのお世話になりました。今では紙テープなどは見たことがない人がいるかも知れない。
このような具合で今では1時間もかからないことが1日がかりになったりしたのですよ。思考による付加価値創造時間にくらべて作業時間が極端に長いので、非常に非効率的でした。現在とは大違いでした。
少しでも無駄時間を減らすために、パッチ作業では機械語を直接操作することも度々ありました。飛び先アドレスまでのバイト数を数えることもしたのですよ。これは後できちんと整理します。
聞き手 燃料噴射制御は当時はどのようにして開発していったのですか。
M氏 ごく初期の頃を説明しましょう。今でこそエンジン制御は大きなシステムになって、システム設計、マイコンのコントロールユニットのハードウエア設計、ソフトウエア設計と分担して連携して行わないとできませんが、昔は全部自分達でやったのですよ。
聞き手 組織でではなく家内工業的なのですね。
M氏 そうですね。大きな有機的組織に発展したのはもっと後のことです。
設計ステップはシステム設計が最初です。センサやアクチュエータ、そして信号の処理方法、信号処理タイミング決定、分解能の計算そのようなことを最初に行ないます。そして回路設計をします。そしてプリント基板の設計。その手配。同時にソフトウエアの設計です。
そうこうするうちに部品が出来上がってきますから、先行してdebug用のコントロールユニットを組み立てます。そしてプログラムの確認です。
聞き手 大変ですね。プログラムの確認はどうやってやるのですか。
M氏 最初の頃は道具がなくて大変だったのです。特にプログラム設計が悪くて暴走を起こすと大変で問題個所を見つけるために何日も要したことがありました。プログラムにbreak pointを設定してregisterの内容を見て判断するのです。
後には関連機器の供給会社が現われて来ました。そしてプログラムの流れがCRT上に目視できるようになりました。俗にロジアナと呼ばれる装置です。これでdebug効率が飛躍的に上がりました。
最初の頃は定型的な処理部分のsubroutineも全部自分で作ったわけです。また割り込み関係がいやらしかった。この状態での虫取りは大変な時間を要したのです。後にはsubroutineは標準化されライブラリー化されOSも固定化されていったのですが、その当時は確定的なものはまだなく積み上げ中だったのです。
検証は本当に根気のいることでした。虫は往々にして規定範囲の境界にいましたね。例えばエンジン回転速度25rpmの分解能の場合ではマイコン内数値255は6,375rpmになります。8bitではこれが最大の扱い得る数ですがそれ以上のエンジン回転速度ではどうなるかです。処理が拙いと動作がおかしくなります。これは極く簡単な例ですが全プログラム中には似たようなところは無数にあるのです。
もう1つ大事なことは、システム全体を机上に実現させることです。模擬信号の発生器と実負荷を準備しました。従って試験中はinjectorの音がカチャカチャと鳴りました。場合によっては点火火花も飛ばしました。これはノイズ発生源なので回りからは嫌われました。
この机上装置は細かな検証を行なう上で欠かせないものです。
聞き手 その後は実機試験ですね。
M氏 そうです。エンジン試験や実車試験になります。
エンジン試験では最初がドキドキしますね。エンジンがかからないとがっかりです。その場合の原因はいろいろです。燃料系、点火系、それにセンサ、ワイヤハーネスそれにコントロールユニットそのものなどどれがおかしくてもエンジンは正常には回りません。
割と多かった初期トラブルはワイヤハーネスだったように思います。
でも必ず回りだします。後は意図どおりになっているかの確認です。
実車の場合は更に運転性と排ガスの確認が重要です。拙い場合はその対応を考えなければなりません。加減速などチェックポイントは多くあります。そして再度プログラムの修正を行なうことになります。というよりもアルゴリズムの修正というべきですね。
聞き手 大変だけど面白そうですね。
M氏 その通りです。でも遣り甲斐がありました。後にあるお客さん向けのシステムを手がけたときには本当に仲良くしていただきました。S氏宅に泊めていただいたり課会に招待されたり今でもいい思い出です。何年か前にDetroitの日本食レストランでその当時お世話になったI氏に偶然お会いしてお互いに大感激でしたよ。
S氏には何年か前に東京駅でやはり偶然お会いし感激しました。
聞き手 そのあとはいかがされましたか。
M氏 そうですね。そのあとは立場が変わって行って直接的に触りまくることは少なくなりました。
担当分野もいろいろと変わりました。
その他の話もいろいろあるのですが、次回ではいかがでしょうか。
聞き手 そうですね。次回は話題を変えてまた対談の機会を持ちたいと思います。本日はどうもありがとうございました。
これはVirtual Interviewです。
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