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目次 
   1. 雑感
   2. 昔日記
   3. 受信機

昔日記

カブトムシ
○○市の我家の付近は雑木林が沢山ありました。 20年近く前になるでしょうか、勤めから帰宅すると毎日小さな息子たちは親父をお迎えです。 夏の盛りはカブトムシとクワガタムシのシーズンです。 毎夜カブトムシ取りに連れ出されました。 クヌギの雑木林は虫の宝庫です。 面白いことに同じ種類の木でも樹液の出る特定の木に虫は集まります。 虫籠はカブトムシとクワガタムシで一杯になります。 子供たちは特にノコギリクワガタに興味があるらしくノコと言って目を輝かせていました。
夜、玄関に置いた虫籠からカブトムシが逃げ出して飛び回った時は家の中は大騒ぎ、家内は金切り声を張り上げました。 社会人になった息子たちは今、虫には見向きもしません。

道路
30年ほど前になるでしょう。 独身のころH市にある寮から☆☆市にある会社まで23kmを車で通勤していました。 当時の道路事情は思えばひどいものでした。 途中幹線道路から外れると砂利道の凸凹道でした。 そこをスピードを上げて飛ばすと後は砂埃で見えなくなりました。 凸凹道の走り方は中間の速度はよろしくない。 速いか遅いかがいいのです。 今の若い人はうまく走れないかもしれない。
当時乗っていた車は、H社の1300ccでした。 H社は今でこそ技術的にも最先端の会社になりましたが、当時は駆け出しの会社で足回りは特に最悪でした。 サニーはこの悪路をうまく走るが、私の1300は突き上げが来るやら、振動が激しくて落第車でした。 サニーと2台で走ると置いてけぼりでした。 蓄積された技術力の差とは大変なものです。 でもこの23kmの道のりを遅刻しそうな時は20分で走ったのです。 今は昔の話です。

昔の2輪車
昔のバイクは『陸王』といってハーレーのミニ版がありました。小さいところではいわゆる原動機付自転車で『BSモーター』というのがあって、自転車の左後上にあってリム駆動で倒立エンジンでした。ホンダの『カブ』もあって白い丸いタンクがありました。その他、後輪のタイヤにローラーで駆動する後付けエンジンが多数出回っていたように思います。メーカーは覚えていませんが、ハンドルの前にエンジンをつけた前輪駆動式もありました。
あの頃、半世紀前は本当に多種の2輪車が巷に溢れていて百花繚乱状態で、その中から頭角をあらわしたのが現存のメーカーですね。農機のイセキも後付けエンジンを出していたと記憶しています。トーハツランペットといって50ccの専用車体の垢抜けたモデルがあったし、トヨモータ、ショーワクルーザー、陸王、ライラック、キャブトン、ポインター、クイーンロケット、メグロ、シルバーピジョン、ラビット、ヒラノポップなど今は消えたメーカー/ブランドが多数ありました。そのまま生き残ったのは、ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキの4社ですが、その他は消えたか、どこかの系列になったか、ほかの分野に転向したかですね。
50年前は世の中に勢いがあって起業家精神が旺盛だったのではと思います。ネーミングもその時は時代を反映しているのか今思うとふざけた感じでホンダは『ベンリー号』、スズキは『コレダ号』というのがあって『便利』、『あれではなくこれだ』という意味であるのは容易に推測がつきます。
前輪の緩衝装置も変遷があって、telescopic(望遠鏡の筒)式やEarls forkだったのが、ホンダがbottom link式を出してからはそれに各社が追随しました。でもbottom link式はキャスター角やトレール寸法が変化し、その他推測するに剛性不足の欠点があるのでレースでの走行安定性が悪く、再び改良型のtelescopic式に戻っていったのです。
その他、ホンダがプレスフレーム式を採用し、前輪のフォークまでbottom link式と組み合わせてこれにしたものだから、各社がこれに追随しました。スズキなどは流行に迎合のあまりtelescopic式をプレスフレームにくるんだりして本末転倒の観がありましたが、これも再び中型以上はパイプフレームに戻りました。今のカブは往時のスタイルを残しており、月光仮面のバイクはこの時代のもので流行を反映しています。 今は時代が変わって、ベンチャーがこの分野で出そうもないのは残念です。

信号
私のH社製1300と友人のスカイライン2000GTと会社出勤時のある時競争をしました。 青信号で発進加速を競います。 スカGがやや速い。 しかしそれが急減速しました。 エンジンが壊れたのです。 後に判ったのですが回転を上げ過ぎたのかロッカーアームが折れたらしい。 私の車は大丈夫でした。言っておきますがそんなにスピードを出したわけではありません。あるスピードでお終いにします。

昔のコピー機
昔は青焼きといってジアゾ式のものであり、アンモニアで現像するタイプでした。 昔コピーをしているとこれにすごく小さな小蝿が飛んで来ました。 アンモニア臭に吸い寄せられられたのです。 不潔臭なのですね。

寝台車
昔、広島までよく出張に行ったものです。 当時、山陽新幹線はなく寝台車が主流でした。 『あさかぜ』によく乗ったわけで、夜通し走ります。 寝台は3段でした。 寝つきの悪い時には、途中の時間調整停車が判り、その時はすごく静かになりました。 今の新幹線や飛行機に較べてゆったりとした時間の流れでした。

海岸
50年ほど昔、日本海側の★☆市に住んでいた頃、夏休みになれば海水浴目的だけではなく海によく遊びに行ったものです。 ★☆市の海岸は当時は砂山を越えて遥か波打ち際まで自然に満ち溢れていました。 砂山には松や刺のある偽アカシアの林があり、更に海側の開けたところにはグミの木の群落があり、更に波打ち際に近付くと浜ボウフウが生え、浜昼顔が花を付けておりました。 キリギリスがチョンギースと鳴きよく捕まえに行ったものです。
今は海岸は道路が走り、レジャー施設ができて様変わりし、昔のよすがを偲ぶことはできません。

ノミ
ノミといっても若い人は見たこともないでしょうね。 知っているのは『蚤の市』あるいは『flea market』のノミぐらいなものでしょう。 これも『free market』と誤解している人が多いかもしれない。 昔はよくノミにくわれました。 赤く腫れて痒い思いをし、飛び跳ねる小さなノミを捕まえるのに苦労しました。 殺虫剤のリンデンとかDDTやBHCをまいたものです。
今思えばあの殺虫剤は人体に害毒だったのですね。 あの当時は誰もそんなことは考えもしなかった。 でもそのおかげでノミに食われることはなくなりました。

道路の幅
幼い頃、小学校の低学年の頃まで△▽市の町中に住んでおりました。 成年になってから当時住んでいたところに行ってみました。 第一印象は『なんと道路が狭いことか』ということでした。 子供の頃は広い道で遊んでいたという記憶でした。 自分の背丈と相対的な大きさで感じ取っていたということがよく分かります。 子供のときから同じところに住み続けているとこのような感銘を受けることはないはずです。

遭遇
これまで飛行機に乗った際にいわゆる有名人を見かけました。20年と少し前ですか、羽田からの小松便に宇野重吉と乗り合わせました。軽装でハイキングのいでたちでした。十数年以上前にロンドンからだったと思うけど、そこから成田への便で松田聖子と乗り合わせました。前の方から機内通路をトイレに向かって歩いて来るところで気が付きました。細くて華奢という印象でした。あの頃は郷ひろみとの仲を囁かれれていたときで、欧州で密会後の別々の帰国だったのかもしれない。この後、この件が週刊誌に載ったように記憶しています。
更に十年ほど前ですか、成田の出国手続きで並んでいた時のこと、目の前にいるおばさんが中尾ミエだと気付きました。うなじにホクロがあるので間違いないことが分かりました。更に5年程前にシャルルドゴール空港でストイコビッチ夫妻に会いました。このときはこちらが家族同伴の時で、お願いして一緒に写真に収まって貰いました。
このように気付いただけで何回か遭遇しているのですが、きっとこの何十倍も有名人に遭遇したに違いないが気付かなかっただけだと思います。

おもちなさいな
吉永小百合の歌に「いつでも夢を」という歌があります。昔『…おもちなさいないつでも夢を…』という歌詞の『おもちなさいな』の意味は歌をきいていてわかりませんでした。 そのうちに『持ってください』という意味と分かりましたが、地方に住んでいると当時はいわゆる東京弁はわからなかったのです。また裕次郎の『おいらはドラマ』の『おいら』の 意味は分かったもののなんて珍妙な言い方だと感じたものでした。 そういえば村田英雄の王将の歌詞に『月も知っているおいらの意気地』というのがありましたね。あれは東京に出ようという大阪人の将棋指しを歌っているわけだから 東京弁の『おいら』はあり得ないですね。

研究発表会
規模のある程度大きな製造会社では技術成果を報告する研究発表会が必ずあります。今ではパソコンでPower Pointを使って作成し、projectorで映すのが当たり前ですが昔は違いました。大きな模造紙に何枚もマジックインキで書くわけだから手間がかかるし、字や絵の下手な人やセンスのない人では様になりません。一番大変なのは修正でした。上長に見てもらって修正の指摘を前日に受けることは当たり前で、大修正の場合などは大変でした。しかしその頃は同じグループの皆さんが女性を含めて総出で手伝いました。夜中までかかって完成させるのですが、書き損じたところは切り張りしたり、配色に工夫をしたり、差し入れがあったり、結構楽しくやっていたように思います。
その後はOHPになり、更にprojectorが使われるようになりました。今ではパソコンで発表者一人が全て作ることになりますね。それが本来でしょうが、共同作業の楽しみが減りましたね。

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